背景
15年間恋人として親しく交際し、私の人生のパートナーであり、世界で最も私の愛する女性であった遠藤宏子(仮名)さんが2006年年9月11日の昼過ぎ、彼女が家族と共に住んでいた、東京都内の彼女の自宅から歩いて1分の所にある商業ビルの外階段の11階から飛び降り、自殺により亡くなりました。享年51歳でした。アメリカでニューヨークの世界貿易センターを初めとする同時多発テロ事件があったのが2001年9月11日で、911事件とかナイン・イレブンとか呼ばれていますが、それからちょうど5年後のことで、私にとっての911事件、ナイン・イレブンです。私の心の悲しみと苦しみは筆舌に尽くし難いものがありす。それまで経験したことのないような異常な心の状態になりました。
宏子さんは何故自殺してしまったのか、原因探究を私はすぐに始めました。彼女は私と交際していた同じ15年間ずっと都内所在のある精神科クリニックに通っていました。しかもこのクリニックの精神科医からは統合失調症と診断されているという事を生前本人から聞いていたので、不思議に思っていました。15年間彼女と親しく交際していて、只の一度たりとも、彼女に幻覚や妄想があると私に思わせるような行動は彼女に見たことはなかったからです。精神疾患があるなどとはとても思えませんでした。後になって、民事裁判の段階でカルテを入手し、目を通して見ましたが、カルテにも宏子さんに幻覚、妄想のような精神病症状があった事を疑わせる記述は何もありませんでした。統合失調症であるとするのは明らかに誤診であったのです。
誤診に基づいて、統合失調症を適応症とする抗精神病薬や、抗不安薬、睡眠薬等の精神治療薬を、少なからざる量、15年間に渡ってこの精神科医は宏子さんに処方し続けたのです。いつも不思議に思っていた私は、そういった薬を飲まなかったらどうなると宏子さんに尋ねると、彼女の答えはいつも「飲まないと変になるから」というものでした。精神科や精神科の薬について当時の私は極めて無知でした。「飲まないと変になる」のはまだ精神疾患が治っていないからではないかと早合点し、彼女にもそう言ってしまいました。こんな事を彼女に言ってしまったことを私は今では深く後悔しています。飲まないとどういう風に変になるのか詳しく聞いておくべきでした。
精神科の薬には皆、依存性があって、服薬を中断すると離脱症状とか禁断症状が現れるということを当時私は無知で知りませんでした。精神科の薬を一旦飲み始めると、止めたくても止められなくなってしまうのです。いわゆる麻薬とその点ではなんら変わらないのです。精神疾患などなかったにも拘わらず、このサイトで説明したような危険で、死にたくなるような薬を、それも度を超えて投薬され続けたのです。
宏子さんの亡くなった後、私は夢中になって精神医学や薬の事を勉強しました。彼女の自殺の本当の原因を突き止めたかったからです。日本や海外の精神医学専門誌を何種類も予約購読しました。日本や海外の専門書も多数取り寄せました。インターネットの発達のお蔭で、世界中から専門書も簡単に手に入れられます。インターネット上の多数のウエブサイトでたくさんの情報を探りました。その結果、彼女の自殺の根本原因は、精神科で使われている薬であるという結論に達しました。これは今の私の揺るぎない信念になっています。その信念に動かされて私はこのサイトを立ち上げることにしました。
間違いなく、宏子さんの死は医原性、薬原性の死でした。こんな不正で邪悪なことが許されていい筈はないという強い憤りの気持ちを私は今、持っています。宏子さんが自殺した後、これは自分の心を癒すためという目的もあって、彼女のかかっていたクリニックの精神科医を、診察料を払っ、何度か受診しました。その時のこの精神科医の言った言葉が、私の心に突き刺さりました。 「なーに、時がたてば忘れるよ。人間とは利己的なものだ。」 彼の人生観がそこには集約されているのような気がしました。自分の患者に自殺者が出るたびに、この呪文を唱えて、自分の心を慰めているのではないかと思いました。
刑事裁判
宏子さんの死は医原性、薬原性であると強く信じるに至りましたので、法に従って業務上過失致死の疑いで刑事告発状を東京地方検察庁に提出することにしました。告発状を霞が関の東京地検本部に自ら持って行きました。入り口のドアは鍵がかかっていて入れませんでしたので、ドアにあるインターフォンで電話すると事務職員の女性が降りて来て、ドアを開けて私の告発状を受け取りました。しかし受け取るのと受理とは意味が違います。その後何度か東京地検特捜部直告班の担当者と郵便による書面のやり取りがありましたが、書面と言っても相手方の送ってくる書面はわずか数行しか書いていない簡略なもので、しかも担当者は自分の名前を一切明らかにしませんでした。
1ヵ月半程したところで地検から呼び出され、ある検事と面会できました。彼が言うには、告発状は警察に出して欲しいということでした。そこで警視庁に電話して、告発状を持って行きたいが、警視庁のどの部門に持って行けばいいか尋ねると、告発状はすべて所管の警察署に提出することになっており、警視庁では告発状は一切受け付けていないとのことでした。
そこで、所管の警察署である巣鴨警察署に自ら赴き「告発状」(全56頁)と「陳述書」(全60頁)を提出しました。しかし応対に出た巣鴨署刑事課長は告発状の初めの3頁を読んだだけで告発状を突き返して来ました。これは受け入れられないと思い、抗議するため翌日、警視庁に行くと、警視庁の広報課の職員が私の応対に出てきました。彼が巣鴨警察署に連絡を取って、「告発状」はすべて読んだ上で受理、不受理の決定をするようにと巣鴨警察署に指示するとの発言がありました。するとその翌日に巣鴨署から私のもとに電話があり、私の告発状を読みたいので、郵送してくれということでしたので、私は告発状と陳述書を巣鴨署に郵送しました。
その後1週間程経って、巣鴨署の刑事課長とその部下が私の自宅に私を訪ねてきて、告発状はやはり受理できないと言ってきました。告発状と陳述書は全編読んだが、立件が難しい事案なので告発状は受理できないという不受理の理由でした。刑事課長は知り合いに心臓外科医がいるので、その医師に尋ねた所、精神疾患の人は「半端じゃない量」の睡眠薬を飲むと聞いた。だから宏子さんが処方を受けた睡眠薬の量は別に異常なものではないとのことでした。この心臓外科も大きな思い間違いをしています。精神疾患があるから夜眠れなくなるのではないのです。精神疾患があると診断されて、各種の精神治療薬を処方され、その薬が脳の作用に干渉するために夜眠れなくなるのです。それで精神科にかかっている人はほとんどが睡眠薬も飲んでいるのです。
若し巣鴨警察署が告発状を受理していれば、告発状は東京地検に回り、東京地検が、起訴するかどうかという決定を下すという手順になった筈ですが、ここで日本の検察の抱える問題があります。日本の検察は刑事裁判に於いて、100%被告人を有罪とできることを狙っています。実際には有罪率の実績は100%にはならず99%代止まりのようですが、目指すのは100%です。海外ではそんなことはないようです。これは日本の刑事裁判の一つの特徴です。被告人が裁判で無罪となるような事案を取り上げれば、それを担当した検事は人事考課でマイナスの評価を受けることになるのでしょう。 従って、検事はこれは間違いなく有罪だという確証がなければ起訴することはないのです。
当初、私と書面でやり取りをしていた東京地検特捜部直告班の職員も、私の告発状を受理できない理由として、「精神科の問題は難しいから」と言っていました。何が背景にあってこの職員がこんな事を言ったのかというと、起訴したとしても、裁判官が被告人の医師を有罪とする判決を出す確率が非常に小さいということです。日本の裁判所の裁判官は医師対患者の訴訟があった場合、異常な程医師の肩を持つ、不公平な判決を平気で下します。検事も精神科事案を起訴したところで、裁判官は医師を有罪とすることはないだろうと経験上知っているのです。次に述べる私の民事裁判でそれが明らかになっています。
民事裁判
私の訴えを刑事裁判として取り上げてもらえなかったので、次に私はこれを民事裁判にすることにしました。民事裁判では有罪か無罪かで争うのではなく、被告医師に過誤があったかどうか、過誤があったとすれば、被告は原告にいくらの損害賠償金を払えという裁判所の判決を求めて裁判を争う事になります。私にとっては金などどうでもよかったのです。世界最愛の女性を医療過誤によって失ってしまったという無念さがありましたが、それは私の個人の問題です。それ以上に私の心を痛めたのは、何よりもこの医療過誤によって、1人の女性が人生を台無しにされ、さらには51歳という若さで人生を閉じることになってしまったという彼女に対する憐憫の情です。それじゃ余りにも宏子さんが可哀想だと思いました。
民事裁判を進める上で、私にとって第一のハードルは、私の事案を引き受けてくれる弁護士を探すことでした。最後に1人見つかるまでに、10人程の弁護士に声をかけたのですがことごとく断られました。私の事案は裁判で勝つ見込みはないと皆読んで、断ってきたと思います。弁護士にとって成功報酬は大事です。裁判で勝てば、損害賠償金のかなり大きな部分が弁護士に謝礼金として入って来ます。ですからできるだけ勝ちいくさを手掛け、負けいくさには手を染めたくないのです。特に医療問題をよく手がけている弁護士は、裁判官が医師の肩を持ち、医師の過誤をなかなか認めないという歪んだ日本の医療裁判の実情を知っています。私の事案を引き受けてくれたのは、過去に医療裁判の経験のない弁護士で、医療裁判を勉強のために初めてだがやってみようと考えて引き受けてくれたようです。
民事裁判は刑事裁判とちがって、裁判所の法廷で、傍聴人もいる中で、口頭によるやり取りがある訳ではありません。映画やテレビ・ドラマで見るような法廷での裁判の進行はありません。裁判所の上の階にある普通の会議室のような所で、弁論準備会議と呼ばれる打ち合わせのための簡単な会議が裁判長が取り仕切る中で、1~2か月に1回程度開かれるだけです。準備書面と呼ばれる書類に言いたいことはすべて書いて、あらかじめ裁判所に提出しておきます。弁論準備会議は単なる裁判進行のための打ち合わせの場でしかなく、通常数分で終わってしまいます。
私の場合には訴状を東京地方裁判所に提出してから、判決が出るまでに約1年8か月かかりました。1年8か月かかったからといって、裁判所がそれだけ時間をかけてじっくりと検討し、審理したと思ってはいけません。裁判官は余りにも多くの事案を手掛けているので、実際に一件あたりに費やす合計時間は驚くほど短時間です。裁判所はそういった数字を一切世間に公表していませんが、世間に伝わっている情報を総合的に吟味して見るとそれが正しそうです。
第二のハードルはカルテの開示手続きの問題でした。医療裁判の場合にはカルテが重要な意味を持ちます。カルテが廃棄されたり改ざんされてしまっては、証拠に基づいた公正な裁判が出来なくなります。そこで証拠保全申立書という書類を原告が裁判所に提出して、それを裁判所が認めれば、裁判所の命令でカルテを被告から強制的に提出させることができるのです。証拠保全申立書には、何故、証拠保全が必要かを詳細に書いて説明し、証拠書類を付けて提出しなくてはなりません。訴状に書いたと同じような詳細さが求められます。提出後、裁判所に言われた日時に裁判所に行って、証拠保全担当の一人の裁判官(通常は若い裁判官)と面接し、裁判官のいろいろな質問に原告は答えなくてはなりません。この裁判官が証拠保全をするかどうか最終決定をします。
証拠保全を許すという決定が下されると、この裁判官と裁判所の書記官が被告の医療機関を抜き打ちで訪れ、カルテの開示を求めます。私の場合には、そこまでは順調に行きました。ところが裁判官と書記官と私の雇った弁護士が、証拠保全当日被告クリニックを訪れると、カルテはそこには物理的にありませんでした。被告は被告の雇った弁護士事務所にカルテを前もって預けていたため、カルテの開示はその場ではできなかったのです。
証拠保全でカルテを開示させるという決定を裁判所は一回したのですが、カルテが医療機関に物理的に置いていなかったという理由で、証拠保全手続きを一からやり直しです。証拠保全申立書をもう一度正式に裁判所に提出し、その裁決を再び仰がなくてはなりません。2回目に私の証拠保全請求を認めるかどうかを審査した裁判官は若い女性の裁判官でした。年の頃から判断してまだ裁判官に成りたての人と思えました。彼女はいろいろと難癖をつけてなかなかイエスと言ってくれません。その時の彼女の言った言葉が印象的です。彼女はこう言いました。「医者だって一生懸命やっているんだから、そんなにいじめたら可哀想だ」という言葉でした。何気なくこの若い裁判官が言った言葉が、裁判官の間での物の見方をよく表しているのではないかと思います。私はそれを彼女の口から聞いた時に、私は内心こう彼女に尋ねたくなりました。「あなたの親、兄弟姉妹、あるいは親戚に医者がいるんですか?」
こういった物の見方はこの若い裁判官に固有の個人的なものではないでしょう。裁判官になった時からそういう教育を内部で受けていることと思います。「医者だった一生懸命やっているのだから、そんなにいじめたら可哀想だ」。公正さ、公平さ、中立性、理性と正義に基づいて裁くと言った考え方は後ろに追いやられています。医者が可哀想だと言っても、大方の医者は医療過誤保険に入っている筈です。人の命を預かるという重大な職務を遂行しているが故に、平均と比べてずっと高い収入を社会は医師に許しているのです。患者の命と人生は金で買い戻すことはできません。患者家族や近親者の悲しみや苦しみについてはそれを可哀想だとは思わないのでしょうか。判決を下す時にも裁判官の間のこの物の見方が反映されています。日本の医療裁判で原告側が勝てない理由がここにあります。私の民事医療裁判でもその裁判官のバイアスが如実に現れています。
この若い女性の裁判官が証拠保全によるカルテ開示を許すかどうか迷って、結論が出ぬまま数日たったところで、被告弁護士の方から地裁に自発的にカルテを提出してきました。ここまで来てカルテを提出しないことは、被告にとってかえって不利になることであると被告側の弁護士は考えたことと思います。
私の事例では被告の精神科医は、診断と治療(薬物療法)という二つの面で誤りを犯しています。
まず診断の誤りです。明らかに宏子さんは統合失調症ではないのに、統合失調症と診断しました。しかも何年もの間、カルテには初めから統合失調症と書いているにも拘わらず、被告医師は本人に統合失調症であるとの診断名を告げませんでした。宏子さんは日記を長年に渡ってつけていました。その日記を見ても幻覚、妄想や統合失調症の症状と思えるものは何もありませんでした。15年間親しく交際する中で、宏子さんが幻覚や妄想に基づいて行動するのを私は一度も目撃したことはありません。私だけではありません。彼女は生まれてから51歳で亡くなるまで母親と姉と絶えず一緒に暮らしていました。裁判の時点ではまだ健在であった母親と姉は、宏子が幻覚、妄想などの精神病状態になるのを見たことはないと供述しています。
この母親と姉の供述に関して、判決文は以下のように言っています。以下は判決文からの引用です。
「しかし、いずれの供述も、個々人の主観的な記憶や印象に基づいて宏子に統合失調症の症状がなかったことを述べるにとどまるものであるから、これらの供述のみをもって、宏子が統合失調症ではなかったとする原告の主張を採用することはできない。」
51年間、同じ屋根の下で住んだ母親と姉が、宏子さんに幻覚、妄想などの統合失調症の症状を一度も見たことがなかったと言っているのに、それは主観的な記憶や印象に基づくものであるとして退け、平均すると3~4週間に一回、一回につき5~10分、診察で会っただけの精神科医の言う事を何故認めるのか、完全に人間の理に反した判決文の内容です。
次に被告精神科医の治療上の誤りです。統合失調症という誤った診断に基づき、飲む必要のない危険な精神治療薬をこの被告精神科医は宏子さんに15年間処方しました。彼女が自殺する1年前から受けていた処方を以下に書き出して見ます。
商品名 |
一般名 |
1日服用量 |
備考 |
インプロメン |
bromperidol |
12mg |
定型抗精神病薬 |
リントン |
haloperidol |
3mg |
定型抗精神病薬 |
タスモリン |
biperiden |
4mg |
抗パーキンソン薬 |
レキソタン |
bromazepam |
8mg |
ベンゾジアゼピン系抗不安薬 |
ロヒプノール |
flunitrazepam |
4mg |
ベンゾジアゼピン系睡眠薬 |
ベゲタミンB |
chlorpromazine
promethazine
phenobarbital |
1錠 |
3種の薬から成る
合剤の睡眠薬 |
上記の処方の中で一番問題となるのは、ベンゾジアゼピン系の睡眠薬ロヒプノール4mgという処方です。宏子さんは自殺する1年も前からロヒプノールを毎日4mg飲むように処方されてきました。しかも自殺するまでの10年前から1年前までは、ロヒプノール2mgの服用を続けて来ていたのです。 本サイトの「ベンゾジアゼピン」の節で紹介したロヒプノールのフランスの添付文書とドイツの添付文書を思い出して見て下さい。
両国とも服用量の上限は1mgです。かつ服用していい期間は2~4週間です。こんな依存性のある強い薬を宏子さんは2~4mgの服用量で10年も服薬させられたわけです。しかも自殺するまでの1年間はロヒプノールに加えて、これも危険極まりないベゲタミンBも追加処方され、さらにはベンゾジアゼピン系抗不安薬のレキソタンも10年以上処方されていたのです。ヨーロッパの常識からいったら、これでは自殺して当然の処方なのです。
それではこれについて東京地裁の判決文は何と言ってるでしょうか。
「原告は、被告が本件投薬期間中に宏子に対して1日当たり2mg、多いときには1日当たり4mgのロヒプノールを投与したことを注意義務違反であると主張するが、上記のとおり、ロヒプノールの添付文書には「なお、年齢・症状により適宜増減する」との記載があるのであって、被告の投薬量が直ちに医師としての裁量を逸脱する不適切なものであったということはできないし、ロヒプノールの投与によって、宏子に何らかの副作用が生じたとの事実を認めるに足りる証拠もない。被告がベゲタミンBを併せて投与したとの点について、ロヒプノールとベゲタミンBを併せて投与したことによって宏子に何らかの副作用が生じたとの事実を認めるに足りる証拠はないことも同様である。」
添付文書には「なお、年齢・症状により適宜増減する」と書いてあるから、4mg処方しても不適切なものであったとはいえないと判決文は述べていますが、同じ添付文書の別の所、4.副作用、(1)重大な副作用 1) 依存性の項目には「観察を十分に行い、用量を超えないように慎重に投与」と書いてあります。「年齢・症状により適宜・増減する」と言っても、それはあくまでも用量の上限の2mgまでの範囲内でと解釈するのが理に適った解釈です。フランスやドイツでは1mgが用量の上限とされている強い薬を、4mgは医師の裁量を逸脱するものではないなどとはとても言えないのです。
ロヒプノールの日本の添付文書
薬の用量を決定する際に目安の一つとなるのは人間の体重です。これは薬理学の基本です。体重1kgにつきどの位の薬の量が適切かを算出します。同じ薬であっても、体重の少ない子供では大人と比べて服用量を減らさなくてはなりません。ドイツやフランスでフルニトラゼパム1mgという上限を設定する時には、ドイツ人やフランス人の成人の平均体重を基に決めていた筈です。ドイツ人の成人男性の平均体重は82.4kg、女性は67.5kgです。宏子さんさんは小柄な日本女性で、亡くなる直前は38kgしかありませんでした。また肝機能検査で肝臓機能が長年の服薬で衰えていることがわかっていました。薬は肝臓で代謝され体から排泄されます。代謝されなかった薬の成分が体に残り、ますます副作用が出やすい状況だったのです。
Human Body Weight, Wikipedia 2015年6月26日ダウンロード
また最高裁には以下の判例があります
「医師が医薬品を使用するに当たって医薬品添付文書に記載された使用上の注意事項に従わず,それによって医療事故が発生した場合には,これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定されるものというべきである(最判平成8・1・23判時1571号57頁)」
私の医療裁判に於ける東京地裁の判決は、最高裁の判例さえ無視したものですが、それでもこんな判決が日本ではまかり通ってしまうのです。
私が裁判所に提出した、B号証と呼ばれる専門書等から引用した証拠文献の数は207件に及びますが、判決ではすべてそれを無視で、あたかもそういった証拠は世の中に存在しないかのような扱いです。因みに、被告医師の提出したB号証はわずか6件で、しかも6件とも精神医学的には初歩的なものばかりでした。裁判官は被告医師に過失があったという結論につながるような証拠はすべて見て見ぬふりをして捨て去り、被告医師には過失がなかったという結論を無理矢理導き出しているのです。1+1は2というのが人間の世界での決まり事、理ですが、日本の裁判官はあらかじめ決めてある結論(判決)に達するためには平気で1+1は3ですといいます。難しいと言われる司法試験に合格して裁判官になった人々ですから、裁判官とはもっと合理的で論理的な判断をする人々と私は思っていましたが、完全に裏切られました。
私は日本の企業とアメリカの企業との間の契約交渉の席に立ち会って、通訳をした経験が何度もありますが、契約書の最後の部分に入れる条項として、アメリカ側が主張して譲らないことが一つあります。若し将来、両社の間で何か紛争が生じた場合には、アメリカ合衆国の法律に基づき、アメリカの裁判所で裁くという文言です。日本の裁判所は信頼し、尊敬できるようなものではない事を世界は知っています。
提出された証拠書類をすべて丁寧に読んでいると、膨大な時間がかかります。他にいくつもの事件を抱えている裁判官には、証拠書類を一つ一つ丁寧に読んで理解する時間がないのです。裁判事務を能率的に進めるためには、被告医師に過誤があったことを立証することに繋がるような証拠書類はすべて無視して、被告医師に過誤はなかったとする予め決めている結論に合いそうなものだけを選択して、判決文に盛り込むのです。そうすれば判決文が早く書けます。1年間に何件の事件を処理したかが、裁判官の人事考課の重要な評価項目の一つのようです。
この東京地裁の判決はとても承服できるものではないので、私は東京高等裁判所に控訴しましたが、東京高裁の判決は、「控訴人の請求は理由がないから、これを棄却すべきである。よって、原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから棄却することとし、本文のとおり判決する。」
というものでした。「本文」というのは地裁判決のことです。
1月17日に控訴理由書を東京高裁に提出し2月28日に高裁判決が出ていますので、事案の内容をもう一度詳細に検討したものとは到底思いません。細かく検討する事なく、地裁の判決を
単純に踏襲しただけのことです。それが高裁の裁判官にとっても作業量から言って、一番楽だからです。東京地裁と東京高裁は霞が関にある同じビルに入居していて、同じ会社のようなものです。人事の交流も行われています。高裁は地裁からの独立性を維持しており、より高みから、より客観的な判決を期待できるものと思うのは素人の誤った思い込みです。所詮同じ穴のムジナであったのです。
最後の手段として最高裁に上告したのですが、上告は棄却されました。棄却理由として最高裁第二小法廷は以下のように述べています。
「1.上告について
民事事件について最高裁判所に上告をすることが許されるのは、民訴法312条1項又は2 項所定の場合に限られるところ、本件上告理由は、理由の不備・食違いをいうが、その実質 は事実誤認又は単なる法令違反を主張するものであって、明らかに上記各項に規定する事 由に該当しない。
2.上告受理申立てについて
本件申立ての理由によれば、本件は、民訴法318条1項により受理すべきものとは認めら れない。」
事実誤認や単なる法令違反では最高裁に上告できないということなのです。日本では三審制度なので、地裁の判決に不服なら、高裁へ、高裁の判決に不服ならば、最高裁に持って行けるとばかり思っていました。ここでも私は誤った思い込みをしていた、あるいは思い込みをさせられていた事を思い知らされました。
私にとって不公平で人間の理に反する東京地裁の判決がすべてであった訳です。東京地裁で私の事案を担当したのは3人の裁判官でした。3人の合議によって判決が下されるので、これは一見民主的な手続きであると思ってしまいますが、実質はそうではないようです。先程述べた弁論準備会議に出て来るのは3人の裁判官の内、裁判長と一番若そうなもう一人の裁判官のみです。私の事例では序列の真ん中の裁判官は弁論準備会議には一度も出てきませんでした。
:この真ん中の裁判官は、私の事案の中味は何も勉強してはいないだろうと想像できます。私の雇った弁護士によると、通例こういった場合には、一番若い裁判官が判決文の原稿を書くのだそうです。そして書いた判決文を上司である裁判長に見せて、それを裁判長が承認すれば、それが最終的なその裁判の判決になります。裁判長が気に入らなければ、書き直しを命じられるでしょう。
私の事例では裁判長は東京地裁民事第14部の部長でもありました。民事第14部というのは、医療裁判を専門とする部です。部の統一見解として、「医者っだって一生懸命やっているのだから、いじめたら可哀想だ」という意識が強ければ、この部の出す判決文はみな医者よりの判決になってしまうでしょう。どこの人間の組織でそうあるように、人事上不利な取り扱いを受けたくなければ、若い部員は部長のいう事に逆らえないのです。
東京地裁民事第14部だけではなく、東京地裁全体が、全国の地裁すべてが、全国にいくつかある高裁もすべて、ひょっとしたら最高裁までも同じ意識で医療裁判をやっているかも知れません。「医者だって一生懸命やっているのだから、いじめたら可哀想だ」。裁判官も官僚組織です。出世したかったら、人事上不利な扱いを受けたくなかったら、皆、上司の言う事を聞かざるを得ないのです。裁判官人事に法務省がからんでいるのであれば、法務省の影響力も無視できません。また法務大臣は政治家ですから、日本医師会や日本製薬工業協会といった外部の利益団体の声に大きな影響を受けています。
地裁であっても、裁判官の判決が日本国家としての最終決定です。国民は不服であっても如何ともなりません。三審制というのは実は虚構でしかありません。国民は裁判官を裁くことはできません。なんという裁判官がどんな判決を下したか、自分の絡んだ裁判でなければ、普通それも知ることはありません。また自分の裁判で国民は裁判官を選ぶ権利もありません。割り振られた裁判官の判決に従うしかありません。衆議院選挙があると最高裁判事の国民審査という制度がありますが、どの判事が過去にどんな判決を下したのか、国民は何も知らされないまま、最高裁判事の良否を決めなくてはなりません。それは余りにも形骸化しています。日本の裁判制度は民主主義とは程遠いものです。
警察、検察、裁判所といった政府の司法部門は、法に基づく取り締まりによって、危険な行為や不正な行為から国民の命、健康、財産を守るのが本来の機能です。現在の日本では、何か別の思惑で司法が動いていて司法が本来の機能を果たしていないことが多いようです。
裁判所が医師に対してより厳格な態度をとれば、医師も診療や処方についてより慎重になります。裁判所が医師の無謀で無節制な処方に対する抑止力として働くのです。年間自殺者数約27,000人、異状死約150,000(いずれも平成25年)という数字が大きく下がる筈です。
私の民事医療裁判を担当した東京地裁の3人の裁判官は以下の人達です。
裁判長 高橋 譲 (東京地方裁判所民事第14部部長)
裁判官 榮 岳夫
裁判官 中町 翔
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