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2 病名や分類のウソ



   わかってたまるか患者の気持ち

 出しおくれの証文のようで申し訳ないが、千葉県佐原市で前衆議院予算委員長、よど号乗っ取り事件で「男、山村新治郎」と呼ばれた山村代議士は、自宅の寝室で次女に出刃包丁で滅多刺しにされて死亡した。私の住んでいるところから千キロメートルも離れたところで起こった事件で、しかも私の知識としてはテレビ、新聞、週刊誌などから得られたものだから、本当の意味での正確を期したコメントなどはできようとも思わないが、私の考えを述べておく。山村家にとっては、ひょっとしたらこんな事件になる可能性をまったく予知できなかったわけでもあるまいが、まさかこうはならないだろうとも思っていたと考えてよい。毎日のように次女が包丁を振りまわすようでは、精神病院に引き取ってもらわなければなるまいし、ときにそういう振舞いがあっても、まあまあとなだめていればどうやらおとなしくなってくれるという程度であったのではないか、というのが私の想像である。
 ただここで強調しておきたいのは、この娘さんは入院歴があり、そのことは本人の言うことが普通の人には諒解不能でありヽ本人の行動もまた諒解不能でヽおそらく他者(家族および他人)に対してかなりの迷惑になる行為を行なったことがあるか、行なう可能性が十分にあったと考えられることである。誰だって自分の子供を精神病院などには入院させたくはない。前述のごとく精神科の外来を訪れるのですら涙ながらの人もあるくらいだから、我慢できるまで我慢して、ついに本人の迷惑行為に耐えかねての入院であったことはほぼ確実である。

 精神病患者の特徴は、行動の根拠となる本人の精神状態が通常の人には諒解不能であり、行動そのものもまた諒解不能であり、それが自傷はともかく、他害という迷惑行為にまで発展するというところである。
 私の外来にも、他人から何かをいわれると、その内容によってその相手を滅茶若菜にしてやろという気になる、と物騒なことをいう若い公務員の患者さんがいる。さいわい両親と職場の上司の人がつねに気をつけて、服装なども十分に監視し生活態度や勤務状況を観察しておられるようで、いまのところは言うだけですんでいる。「どんなことがそんな気持ちにさせますか」と聞くと、「まあいろいろな場合です」と要領を得ないこともはなはだしい。

 だが他人の気持ちなどは本当のところはわかりようがないので、向精神薬などという薬を使って何とかカッとするのを抑えられるかと見守っているだけである。山村新治郎氏の事件だけでなく、事件が残酷で社会的問題となるようだと、いろいろの精神科医や心理学者が登場して、患者の心理がどうだとか、環境がどうだとかと、本気でこの人たちは言っているのかと疑いたくなるようなコメソトが新聞や週刊誌に出る。物事を断定するのは、バカがするという話かあるが、この人たちの話は、話としてはおもしろいが、はっぎりいってウソである。

 色盲という生まれつきの病気かおる。そのなかでもっとも多いのが赤緑色盲である。医者のなかですら誤解しているのがいるくらいだが、この赤緑色盲の人は赤と緑の区別がつきにくいので、赤と緑を取り違えることがある。この事実から赤緑色盲の人は赤、が緑に、緑が赤に見えると誤解している人かある。

 じつは赤緑色盲の人には赤も緑も似たような灰色に見えるらしい。らしいというのは、色神が正常な人がいったん色盲になって、ふたたび正常にもどるなどという芸当はできないから、光スペクトルや網膜内の物質を調べたりすることで、どうも赤も緑も似たような灰色に見えるのだと説明されている。色盲のことを英語でドルトニズム(daltonism)というが、これは有名な英国の化学者、ドルトンにちなんでいる命名法である。

 ドルトンかある曇った日の夕方に葬式に出席したとき、真っ赤なコートを着て現われて皆を驚かせたというのである。じつはドルトンはすくなくとも赤色盲であって、赤と灰色を取り違えて、灰色のコートで列席すべき葬儀に真っ赤なコートを着て行ったのである。いくら色盲のドルトンでも昼間の明るいときなら、赤が灰色に見えるにしても、本当の灰色のコートと赤色のコートは何となしの色調の明るさみたいなもので、両者の区別はついたらしいのだが、その日はあいにくと曇天で、しかも夕方すでにかなり暗くなっていて区別がつかなかったのだろうといわれている。しかしドルトンの感じる赤色のコートの色調は、他人様にはいっさい想像もつかない色である。せいぜいたくさんの色の布をドルトン氏の前に並べて、どれとどれとが非常に似ていますかと聞いて納得するしかない。
 色盲の人のなかに全色盲というのがある。私は直接そういう人に会ったことはないが、全色盲という女性(外国人)と何度か話をしたという人からの又聞きの話を覚えている。

 全色盲の人が見ている世界というのは、教科書の教えるところでは、モノクローム(単色)、黒白写真の世界だという。はたして本人に聞いてもわかるまい。何しろ本人の見る世界は本人だけにしかわからず、色というものを知らない(?)のだからどうにも説明に窮するだろう。自動車の運転のときの信号の確認はどうしているんだと聞いたら、それなりにどの色の部分が明るいかがわかるから、ちゃんと運転はできるそうである。とっさの場合を除いては全色盲の人でも十分何でもこなせるらしい。とっさの場合なら色神正常の人間でも何をやりだすかわからないから、結局大差はないんだろうで笑い話になってしまった。

 色神異常とか色盲とかの話を出して寄り道をしたのはほかでもない。他人の感覚とか感情とかはとうていうかがい知れるものではない。精神病患者の何パーセソトかは言っていることが諒解不能であり、諒解不能の世界にいる人が諒解不能な心情で諒解不能の行動をとるときにわかるのは、行動の異常だけである。わかっているのはそれだけで、心理や感情や感覚などはわからないということだけがわかるだけである。

 異常行動をした人の心理がどうの、感情がどうのというのは、色神正常の人間が色盲の人の見る赤色がどんな灰色に見えるかということを確かめるという、かなりの難事業にくらべても、絶対不可能に近い。山村新治郎氏の次女の心理かどうだというのはまったくの推量で、まず心理がどうのといっている人の主観にすぎず、話としてはおもしろいがウソであるというのはこういうことからである。
 問題なのは、異常心理が、われわれ正常人(?)が経験したことのない、さらには経験しようもない心理であるのに、われわれの心理の延長線上や同一平面や同一次元にある、と精神医学者や心埋学者、が思い込んでいると思われるフシがあることである。
 この一点についてだけでも、精神医学や精神科医療などの限界がある。それはとりもなおさず、精神科医や精神医学研究者の悲劇だけではなく、精神病患者にとっても、わかってくれると思っている医者が、じつはちっともわかっていないという悲劇をつくりだし、さらには諒解不能な行動で惨劇を行なう人たちから、なんら関係も責任もない人たちまでまきぞえにする悲劇の最大の理由がそこにある。精神病患者はわれわれとは異次元に住む人たちなのである。


   精神医学のでたらめさ

 精神科の教科書を開くと、症状として幻覚、妄想、やらされ思考(以前は作為思考といった)、両価観念などといろいろと並べられており、さらに自閉、緘黙(かんもく)衒奇(げんき)行為などという言葉も並んでいて、たいてい何だかゴチャゴチャ説明してある。
 そのなかには、精神科についての知識はなくてもだいたいこんなことではあるまいかと、ほぼ見当のつくものもあれば、いったいどんなことなのかさっばり見当のつかないものもある。それでも一応読んでみたり、さらには説明を聞いたりすると何とかその言葉のもつ輪郭がわかるような気になる。しかしそれがおおいに曲者なのである。

 前述したように精神病患者の問題点は、結局のところ、常人には諒解不能の行動があり、それが迷惑行為になり、自傷他害(自らを傷つけ他者に害をおよぼす)という行為に結びつくことである。現在残っている病気は、少数の例外を除けば治るというものはほとんどないのだから、精神病が不治・難治であっても仕方がない。高血圧、糖尿病をけじめ、神経疾患といわれる筋ジストロフィー、バーキンソソ病なども不治・難治である。だいいち、ハゲや白髪も治そうにも治らない。癌も同じく治らない。

 治るというのは医者が妄信して言い、それを患者がもしやに引かれて信じているだけのことである。癌の手術の成功か否かについては、三年生存率が六〇パーセントくらいなら成功といえるなどというが、妙なことをいってもらっては困る。盲腸炎(正確には虫垂炎)の三年生存率を論ずる医者がいれば変人扱いにされることまちがいない。手術の成功は生存率が何パーセントなどというべきではなく、本来100パーセントであるはずである。難治・不治の疾患ばかり残ったのだから、精神病がそうであっても仕方がない。困るのは患者の何パーセソトかは、自傷はともかく、他害までする迷惑行為があることである。どんな病気であろうと、患者がひとりいれば何人かが看護、介護をしなければならないから、他者に迷惑をおよぼす。しかしこれは、いわば消極的な迷惑ではあっても、患者のほうから看護、介護の人を殴りつけたり、刃物で脅したり、刺したりすることはそうしばしばはない。

 精神病患者の場合は積極的迷惑行為がある。ただその一点だけが他の病気とちがうところである。ひょっとしたらそういう行為に出るかもしれないが、まあ何とかなるのではないかと油断していると、あっという間もなく惨劇が起こる可能性がある。しかもその予測が、いかなる名医を自任する精神科医にもできないところが問題なのである。

 患者の行為の異常さは誰にでもわかる。だがその行為を引き起こす原因になったのではないかと考えられる、精神状態の異常は誰にもわからない。くどいようだが、いかに名医を名乗ろうと、患者の心理などは、わかったつもりでわかったようなことをいっても、しょせんは推測であり、名医を自任する男の主観でしかない。精神科医療(これが医療の名に値するかどうかさえ問題であるが)の最大の弱点は、医者と患者との間に埋められないギャップの存在することであり、患者の訴えていることを医者が共通体験としてもたないことである。当人の苦痛はしょせん当人しかわからないものではあるが、腹が痛いとか、頭がズキズキするなどという訴えは、医者のほうにしても体験としてもっていることが多く、だいたいの見当はつく。精神科の場合は、患者の訴えの多くを医者が共通体験としてもっていないことがほとんどである。これが問題なのである。


   異常の中身は医者にもわからない

 たとえば、さきに述べた幻覚というのは、感知すべき対象がないのに感知しているもの、あるいはその状態をいうと教科書には記してある。さらによく説明しようと思ってか、「幽霊の正体見たり枯尾花」というのは枯尾花を幽霊と見誤ったもので、これは錯覚であり、感知すべき対象を正確にとらえていないだけであり、感知すべき対象をもたない幻覚とは完全に区別すべきものなどと付記してある。幻覚はもちろん五感(正確にはそれ以外の平衡感覚や体感感覚などもあるが)のそれぞれに、すなわち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のそれぞれに対象がないのに感ずる幻覚があるがが、圧倒的に多いのは聴覚に関する幻覚を訴える患者である。

 だから医者と患者の問答は、「何か人の声みたいなものが聞こえますか」「ええ聞こえます」などという形になる。じつはこれが問題なのである。聞こえていますとおっしゃるが、それがわれわれの世界で聞こえてくる他人の声とほとんど同一なのか、いくぶんちがうのか、ちがっているとすればどうちがうのか。その幻聴に支配されて異常な行動を起こすというが、周囲の人の忠言(といっても患者にとってはお節介にすぎないのだろうが)すらも受けつけないほどひどいものなのか。何しろ医者白身は自らの体験のなかにそういうことがないのだから、あくまで想像、主観の域を出るわけがない。

 さらに問題なのは、医者が患者の幻覚を想像、推測、主観でつくりあげた「幻覚というものはこういうものだ」という観念を固定してしまっていることである。腹部を触診して圧迫をくわえれば、圧痛を訴える患者かおる。それだってしよせんは想像の域を出まいが、腹筋の緊張の度合とか、顔をしかめるとか、他の反射的な動作によって、だいたいの患者の痛みの程度の想像がつく。さらに医者自身にも共通体験がある人もいるだろうから、想像して当たらずといえども遠からずということもあり得よう。しかも他の方法によっても、腹部に変化かあることを確認することも可能であろうから、同じく患者の訴えを聞いているといっても話は大違いである。

 もう一度強調しておく。幻聴にかぎらず幻覚のある患者の住んでいる世界に、医者は一度も一歩も踏み込んだわけでもなく、踏み込むことができないのだから、諒解不能であることは理の当然である。それを教科書などの記載を丸呑みにして教えている精神医学の講義などというのは、浮世ばなれした話と考えてもおかしくないし、一方で諒解不能といいながら患者の心理はこうだというのは、文章として意味をなさない。 こういうことが大手をふってまかり通るのが、精神科医療の珍妙さ加減をものがたっている。

 幻覚とともに精神科医が大きな顔をして並べ立てるのが妄想である。妄想というのは、かつては思考の障害(Störungen des Denkens, disorders of thought)と考えられ、幻覚が感覚の障害であるということで区別されていたが、いまはその区別があいまいになっている。だから正確には妄想などという言葉を使わずに妄感といったほうがよい。じじつ、いつも人から見張られているという妄想がなくなった(?)という人に、あれは妄想ではなく妄感で、何ともいえない怖い感じだったのではありませんかとたずねたら、「そうです。あれは妄感、たしかに妄感で、感じがおかしかったのです」という返事が返ってきたことがある。
 すでに一般的になった用語である強迫観念も、関係念慮(何かか誰かのことが頭から離れないで、どんなこともその何かか誰かに結びついてしまう状態)といわれるものも、べつに思考(Denken))の障害ではなく、やはり感覚や感情の異常さなのであろう。そのほうが説明はつきやすい。こちらもそういうものにとらわれたことがないのでわからないが、日常生活での不安や恐怖感が、われわれが遭遇するようなものよりはるかに強烈なものと考えたほうがよいようである。

 ある人が自分に対して恨みをもっていて、とうとう暴行におよぶ場合、それくらいのことで恨まなくてもよいではないかというのは正常人のいうことである。患者本人の気持ちでは我慢に耐え切れずやったことで、これが諒解不能であるから、そういう事態に至ったのである。そういう説明ではおもしろい話にならないから、深層心理がどうの、愛と憎しみがどうのとか、まあいろいろとおっしゃるが、「講釈師見てきたようなウソを吐き」という類のもので、それがわかるくらいなら、山村新治郎氏の次女の場合の行動も当然予測できるはずである。
 敗戦のあとには何人もの名参謀が生まれて、あのときこうすればという話が続出する。まあ、あれと同じであると思っておけばよいことである。

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   病名、症状のあいまいさ

 幻覚や妄想のひどい人は以前は精神分裂病であると診断されていた。だが肝炎が肝臓の炎症であり、胃癌が胃に癌性の変化かおるというのとちがって、精神という、色も匂いもなければ、実体のとらえようもなく、いわんや臓器でもないものが、分裂という、他科ではいっさい使われることのない病変の名称をつけた精神分裂病などというものは、病変がどこにあって、その病変はどんな具合に発生して、どういう経過をとって悪化したり、ときに改善されたりして治癒の形をとるのかはまったく不明であって、まるで病名としての形をなしていない。精神医学者はこんな病名にもならないものを分類したりして喜んでいるばかりか、それで学位号を授与されたのがいるというのだから笑わせる。

 しかもこの連中の、悪化したとか改善されたというのは、患者の行動に社会的協調性が出てきて諒解不能な点がなくなり、疎通性(話し合って話が通じること)がよくなったというときでも、完全に患者の行動で疾病の消長を見ているだけで、たぶんそれが精神内容というか、心理状態がよくなったと推測しているにすぎない。その程度のことで精神医学などと高言するのは生意気きわまりない話で、正確には異常行勤学とか、もっと正確にいえば社会適応能力分別法といったほうが正直であり、謙虚である。

 分裂病(以下精神分裂炳をそういう)以外に躁鬱(そううつ)病、癲癇(てんかん)、進行麻痺(まひ)というのが四〇年くらい前までは四大精神病といわれた。ところが、てんかんはだいたいにおいて脳の外傷、それは胎児の時期、分娩の時期、そのあとは産後から成長し大人になるまでの、脳における損傷によるものがほとんど全部ということになってきた。たしかに発作時にはあらぬことを口走ったりすることもあるが、精神的におかしいことはなく、発作といわれる痙攣(けいれん)発作や失神ということが主体で、あれはいったい精神病か、などといわれるようになってしまった。

 進行麻痺というのは名前はいかにも大ゲサだが、じつは梅毒の第四期である。行動的にもおかしな行動をしたり、妙なことを口走ったりすることもあるが、瞳孔反射がおかしかったり、手足が感覚麻痺をきたす脊髄癆(せきずいろう)などと一緒にきたりして、これまた身体的疾患として考えられるようになった。

 残るは、そううつ病であるが、あるときはおおいに気が大きくなって金遣いが荒くなり、当の本人にはそれなりの理由はあるだろうが、高価なものを買って自分のものにしたり、他人に贈ったり、ひどいのになると新しい事業をはじめたりする。周囲の人もはじめは、おおいに張り切っているとかえって頼もしがっているが、そのうちだんだん誇大な話についていけなくなる。本人は長距離電話をかけまくり、延々たる手紙やFAXをあまりつきあいのない人にまで送りつける。送られた人は何のことやらさっぱりわからないということになる。同一人物でそういう状態が治まって、こんどは、生きている甲斐がないとか、皆に悪いことをした、迷惑をかけた、死んだほうが皆のためだというふうになる人もある。

 典型的なそううつの繰り返しであるが、実際にはそう的に動きまわり、しゃべりちらすということが多い人と、つねに私は悪い人間です、人に迷惑をかけていて死んだほうがましですといううつ状態がずっと存在しているという形の両方がある。こういう人たち、そう的な人にもうつ的な人にも誇大ないしは罪業妄想というのはあるが、あまり明瞭には幻覚を訴えることは少ない。

 このように書いてくると、分裂病とそううつ病はちゃんと区別がつくようであるが、ほとんどの精神科医、とくに臨床経験の多い人(すなわち大学、大病院で研究と称して愚にもつかぬことにうき身をやつしている連中でない人)は、正確に分裂病とそううつ病は区別がつぎませんという。だいいち治療としても、にぎやかなのは抑え込むか、元気のないのは発揚させるかの二つしかないのですから、分裂病の場合でもそう的なのは抑え込み、自信がなくて死にたいなどというのには発揚するという薬をあたえるだけです、と、はっきり言う医者は多い。

 そのうちのひとりは、「そうもうつも症状がはっきりしていて、家庭では面倒見切れない患者、一応入院させてみるにかぎる」とつけくわえ、さらに「大きな声では言えませんが、発揚するという薬などより、電気ショック療法のほうがはっきり効果は出ます。いままで何も言わなかったのが、何か言いだすという例があります。ただし、こんなことを公言すれば、ひどい目にあいますから、滅多に口外はでぎません」としめくくってくれた。


 目次  

1. カウンセリングは無効なり

2. 病名や分類のウソ

3. 精神病が予防できるか

4. 精神病院は施設にせよ

5. 登校拒否ではなく登校不能である

6. 治ってたまるか老人ボケが

7. 保護のための入院である

8. 限界疲労を超えた精神科医療

9. 精神病治療法の頼りなさ

10.精神科医療は医療ではない

11.精神科はメニューをふやせ

                     


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精神科の真実     


       





















































































































































 

「精神科クリニック物語 - 精神科医療への疑問」 著者:柴田二郎 
                                中央公論社 1993年
            

 この本の最後に載っている著者の略歴紹介によると、柴田二郎(1928年~)は山口大学教授の職を辞した後
、山口市内で精神科クリニックを開業しました。メーンストリームの精神科医ではなかったようですが、かえってそ
のために正直に本音を語ることができたのでしょう。真実1をうまく説明してくれているのでここに引用しました。し
かし柴田はせっかく真実1に気が付いたのに、真実2までは考えが及ばなかったようです。精神科医として生計
を立てている身で、薬の悪口を言うことは許されなかったのかも知れません。そこが彼の限界でした。
 この本は既に絶版になっていて、古書として入手するか図書館で借りるしかないので、やや長めになりますがこ
の本からの引用を以下に載せます。この本の内容、性格を推測するのに役に立つので,引用文の後にこの本の
目次にある各章の見出しも参考までに載せておきます。